子どもたちの笑顔のために

《東京板金工業|命を支えるものづくり》

──子どもたちの笑顔のために、戦後の台所から世界へ

日本中の子どもたちが

お腹いっぱい、美味しいごはんを食べて

笑顔で生きていけますように

それが、私たち東京板金工業のものづくりの原点です。

戦後からはじまった命をつなぐ仕事

東京板金工業のはじまりは、昭和22年10月1日。

戦後まもない混乱の中で、父・松澤清勝が「松澤銅器製作所」を立ち上げたことに始まります。

父は戦時中、ウェーク島で栄養失調となり、終戦を病院のベッドで迎えました。

清勝の弟はブーゲンビル島で脚気とマラリアにより命を落とし、

清勝の妻(私の母)の兄も沖縄戦で戦死──

そんな背景があっても、父は多くを語る人ではありませんでした。

でも、あの時代に、銅板から鍋やヤカンをつくりはじめた父の背中を思い出すと、

それはただの仕事ではなく、何かを祈るような営みだったように感じます。

子どもたちが、安心してお腹いっぱい食べられる世の中にしたい──

そんな想いが、父の手の中に宿っていたのではないかと

私たちが暮らしていた浅草にも、

お腹を空かせた戦争孤児の姿があったはずです。

あの景色が、父の心のどこかに残っていたのではないかと、今になって思います。

銅板一枚から始まった、祈りのようなものづくり

創業当初、父は1枚の銅板から鍋やヤカンをつくる手仕事をしていました。

やがて学校給食制度が始まり、厨房機器の製造にも携わるようになります。

そのなかで父が開発したのが、脱脂粉乳を温めるための「ミルク釜」でした。

脱脂粉乳をご存知の方は「おいしくなかった」と思い出す方も多いでしょう。

でも私は、この釜で温めた脱脂粉乳がなぜか大好きで、

小学生の頃は「僕が代わりに飲んであげるよ」と、余った分まで飲んでいたことをよく覚えています。

“あたたかい飲み物がある”ということが、

どれだけありがたいことだったのか──

今思えば、あのミルク釜には、「子どもたちの笑顔を支えたい」という父の願いが込められていたのだと感じています。

背中で受け継いだ、生き方と志

私たち家族は、会社と自宅が同じ建物の中にある環境で育ちました。

仕事場と暮らしが地続きのような日々の中で、

父や職人さんたちの働く背中を、自然と見てきました。

私が父の仕事を手伝うようになった頃には、

町田に工場もでき、

フライヤーや焼物器、連式のかまど、消毒槽など、

製造する製品もどんどん広がっていきました。

事務所の上にある三畳間で、

弟や従弟と三人で寝泊まりしていたあの頃──

押し入れに足を入れて眠った夜のことが、今でも懐かしく思い出されます。

あれから時が流れ、

今ではシンクや運搬車なども含め、

全国の学校や施設に、私たちの製品をお届けできるようになりました。

食べるという命の営みを支えるために

私たちの仕事は、ただの「厨房機器づくり」ではありません。

“食べる”という命の営みを、見えないところで支える仕事だと、私は感じています。

父が何も語らずとも守ってきたその背中には、

誰かのためを想う静かな力が、確かに宿っていたと感じます。

その想いは、今も私たちの中に息づいています。

そして今、私はこう願っています。

世界中の子どもたちが

お腹いっぱい、美味しいごはんを食べて

笑顔で生きていけますように

これは、父から受け継いだ“志”であり、

東京板金工業という場所に流れる、目には見えないけれど確かなものだと思っています。

これからも、誰かの命を想うものづくり

東京板金工業は、

ひとつひとつの製品に想いを込めて、

誰かの命と笑顔を支えるためのものづくりを続けていきます。

それは、ずっと昔から変わらず、大切にしてきたこと。

これからも静かに、まっすぐに、歩みをつないでいきます。

私たちの名前は、子どもたちに直接届くことはありません。

けれど、全国の学校の給食室で、今日も私たちの製品が静かに使われています。

目立たないけれど、なくてはならないもの。

それを、これからも誠実につくり続けていきます。